憲法改正の前にやるべきこと|教育と歴史の直視なき改憲は暴走する

前編では、高市首相の「憲法観」の危うさ、自民党の改憲案の二重構造、ドイツの永久条項、そして日本の9条の世界的な特異性について書いた。

後編では、もっと根本的な問いに踏み込む。

繰り返すが、私は改憲論者だ。 変えるべきものは変えたほうがいい。しかし、改憲論者だからこそ問う。

今の日本国民は、憲法改正の意味を理解した上で判断できる状態にあるか。

国民の理解なき改憲は、改憲そのものの正当性を損なう。拙速な改憲は、将来の本当に必要な改憲のハードルをかえって上げることにもなりかねない。

国民は「何が変わるか」を知らない?

衆院で3分の2を取った。改憲の発議要件を満たした。だから国民投票へ。

この論理には、決定的に欠けているものがある。国民が改正案の意味を理解しているかという前提だ。

「自衛隊を憲法に書くだけですよ」

自民党のパンフレットはそう説明する。しかし、自衛隊を明記することで9条2項(戦力不保持)の規範力がどう変わるのか。「書いただけ」で本当に済むのか。

後法は前法に優先するという法解釈の原則を踏まえれば、明記された自衛隊の規定が2項の戦力不保持を実質的に空文化させる可能性がある。その議論がどれだけの国民に届いているか。

緊急事態条項にしても同じだ。「大災害に対応するため」と説明されるが、内閣に法律と同等の政令制定権が付与されることの意味、議員の任期延長が選挙の停止を合法化すること、国民に国の指示への服従義務が課されること。これらは「災害対応」という言葉の裏にある権力構造の根本的変更だ。

問題は、こうした本質的な情報が国民に伝わっていないことだ。

そして、伝えるべき立場にある権力者に、伝えるインセンティブがない。自らの権力を拡大しうる改正について、その危険性まで含めて誠実に説明する権力者を期待するのは構造的に無理がある。

憲法教育の不在

なぜ国民が判断できないか。それは国民の能力の問題ではない。そもそも教わる機会がなかったからだ。

日本の学校で教わる憲法は、三大原則の暗記と条文の大まかな内容。テストに出るから覚える。それだけだ。

「なぜこの条文がこう書かれているのか」 「この文言が変わると権力構造がどう変わるか」 「公共の福祉と公益及び公の秩序は何が違うか」 「権力と個人の関係はどう設計されているか」

こうした問いに向き合う訓練は、ほとんど行われてこなかった。2022年に高校で「公共」科目が始まったのは前進だが、それ自体が従来の不足を認めた証拠でもある。

これは国民の知的能力の問題ではない。教育の設計の問題だ。

今の日本の教育政策は、実利や効率が優先され、社会契約や公共について考えるシチズンシップ教育が、文系理系を問わず疎かにされてきた。

しかし、効率的に正解を出す能力と、自分たちの社会がどうあるべきかを判断する能力は、全く別のものだ。

どれほど優秀なエンジニアや経営者を育てても、その人たちが憲法の意味を理解できなければ、国民投票の一票は情緒やSNSのムードに左右されるだけのものになる。

哲学と倫理学が消えた国で

「善悪とは何か」「正義とは何か」「個人と国家の関係はどうあるべきか」「多数決で決めてはいけないことはあるか」

これらの問いに正解はない。だからこそ、自分で考え、他者と議論し、自分なりの判断を形成するプロセスが重要だ。哲学や倫理学が教えるのは「答え」ではなく、「考える方法」だ。

しかし、今の日本の教育はこのプロセスを徹底的に軽視している。正解のある問題を効率的に解く訓練ばかりで、正解のない問いに向き合う訓練がない。

結果として何が起きているか。

自分の中に確かなものがないから流される。SNSのトレンドに流され、テレビの空気に流され、「みんなが言っているから」で判断する。

同調圧力が原因だと言われることが多いが私はそう思わない。同調圧力は欧米にもある。アメリカのキャンセルカルチャーは日本以上に苛烈だ。

違いがあるとすれば、その圧力に対して「それでも自分はこう考える」と言えるだけの思考の基盤があるかどうかだ。その基盤を作るのが、政治学であり、歴史であり、哲学であり、倫理学だ。

民主主義とは国民が判断するシステムだ。国民の判断力が未成熟であれば、民主主義そのものが機能不全に陥る。憲法改正を議論する前に、その議論に参加できる市民を育てる教育の転換が先だ。

回り道に見えるだろう。しかし、これが最も本質的な処方箋だ。

歴史の清算なき改憲

もう一つ、避けて通れない問題がある。歴史認識だ。

近年、SNSやYouTubeを中心に「大東亜戦争はアジア解放のための戦争だった」という言説が急速に広まっている。

私自身、かつてはその立場に近かった。以前の記事でも書いたが、若い頃は反中・反韓思想に染まっていたし、「日本は悪くなかった」という言説を積極的に摂取していた。

自国を誇りたいという感情にぴったりはまった。気持ちよかった。だから、今同じ言説に惹かれている人の心理は内側から理解できる。外側から「歴史修正主義者」とレッテルを貼って終わりにするつもりはない。

考えが変わったのは、一次資料に触れてからだ。当時の公文書、兵士の手記、占領地の記録。それらを読んでいくうちに、「解放」の名のもとで何が行われていたかを知った。自分の国を好きでいることと、過去の過ちを認めることは矛盾しない。そう思えるようになるまでに時間がかかった。

しかし、心情と歴史的事実は区別しなければならない。

結果としてアジアの植民地独立に影響を与えた側面があるという事実と、だから日本の戦争は正しかったという価値判断は、全く別のものだ。この二つを巧妙に混同するのが、歴史修正主義の常套手段だ。

日本がアジア各地で何をしたか。中国、朝鮮半島、東南アジアで何百万もの人々がどのような目に遭ったか。「アジアを救うため」という動機の正当化は、これらの事実の前に成立しない。

そして今を生きる国民が、一生罪悪感を背負う必要もない。反省と罪悪感は違う。

反省とは、何が起きたのかを正確に認識し、なぜそうなったのかを分析し、同じ過ちを繰り返さないための知恵とすることだ。それは後ろ向きな行為ではない。未来のための最も建設的な営みだ。

ドイツがそれを証明している。ナチスの過去と徹底的に向き合い、ホロコーストの記念碑を首都の中心に置き、学校教育で歴史を直視させる。その上で何十回もの憲法改正を行い、欧州の中核国として繁栄している。反省は国を弱くしない。強くする。

歴史を美化すると、憲法の土台が崩れる

ここからが核心だ。

過去の戦争を美化・相対化する動きが広がるとき、それは「なぜ現在の憲法がこう書かれているのか」という文脈そのものが失われていくことを意味する。

9条はなぜ存在するのか。「自衛戦争」の名のもとに侵略が行われ、国民が多大な犠牲を強いられた反省からだ。

個人の尊厳が最高価値とされているのはなぜか。国家が個人を「お国のため」に消耗品として使い捨てた歴史への反省からだ。

権力を制限する仕組みがなぜ必要なのか。権力が暴走し、異論を封じ、国を破滅に導いた歴史への反省からだ。

これらすべての反省の土台を崩しながら憲法改正を進めるのは、家の基礎を壊しながら上階を増築するようなものだ。

日本人は一線を超えたときの強さが世界でもトップだと、私は思っている。幕末から明治にかけての近代化、戦後の焼け野原からの復興。凄まじいエネルギーの集中だ。

しかし、同じエネルギーが、十分な知識と思想の裏付けなしに発揮されたとき、満州事変から太平洋戦争に至る道を突き進む力にもなった。

知識と思想という基盤があってこそ、その強さは建設的な方向に向かう。基盤なき強さは暴走になる。 歴史がそれを証明している。

高市首相がまずやるべきこと

話を現在に戻す。

高市首相が本気で「国の理想の姿を物語るのは憲法だ」と信じているなら、なおさらだ。国の姿を決める憲法を変えようというなら、その主権者である国民がその意味を理解していることが前提だ。国民投票で最終判断を下すのは国民なのだから。

やるべきことの順序が逆なのだ。

改憲発議を急ぐ前に、

  • 現行憲法が何を守っているのかを国民に伝える
  • 各条文がどういう歴史的経緯で生まれたのかを教育する
  • 改正案の条文が変わることで何が起きるのかを具体的に説明する
  • 賛成意見だけでなく、反対意見・懸念も含めて情報を提供する

「周知と教育」。これが改憲の前にやるべきことだ。

誤解のないように言っておく。「数十年かけて教育を変えろ」と言っているのではない。求めているのは、この数ヶ月、数年での集中的な情報公開と国民的議論だ。

改正案の条文を公開し、何が変わるのかを賛成派・反対派の双方が公の場で議論し、国民が判断を形成する時間を確保する。

アイルランドは憲法改正の国民投票の前に、無作為抽出の市民による「市民議会」を開き、専門家の意見聴取と熟議を経て勧告をまとめている。前例はある。

数十年はいらない。しかし数週間では足りない。

安全保障環境の変化も合区問題も「今」の課題だ。中国の軍事力拡大、台湾海峡の緊張、北朝鮮の核開発。改憲議論を駆動しているのはこれらの現実であり、目を背けるつもりはない。

だからこそ、項目ごとに分けて議論すべきだ。合区解消のような技術的改正と、緊急事態条項のような権力構造の根本的変更を、同じスピードで同じパッケージに入れて進めるべきではない。

しかし現実を見れば、衆院選大勝から数日で「憲法改正に挑戦する」「国民投票の環境を早期に整える」と宣言している。周知と教育の段階を飛ばして、手続きの加速に向かっている。

もちろん、権力者がこの順序を踏まないことは、ある意味で予測可能だ。自らの権力拡大につながる改正について、その危険性まで含めて誠実に教育するインセンティブは、構造的に弱い。

だからこそ、国民の側が自ら学ぶしかない。

それでも

何度も言うが、改憲か護憲かという二項対立は、もうやめたほうがいい。

必要なのは、「何を守り、何を変え、そのために国民は何を理解すべきか」という問いだ。

国民主権・基本的人権の尊重・平和主義。これらが強固に守られるのであれば、憲法は変えるべきだろう。

現行憲法は完璧ではない。美しくない日本語も、時代に合わない規定も、解釈でごまかしてきた歪みもある。

しかし、守るべきものと変えてよいものの区別なしに、議席の数を理由に改憲を進めるのは、民主主義の手続きを使って民主主義の実質を空洞化させることになりかねない。

ドイツのように永久条項を導入するのか。条文の重みづけを制度化するのか。国民の理解を前提条件とする仕組みを作るのか。方法はいくつもある。

大切なのは、皆が確かな歴史をもとに自分自身の考えをしっかり持って、よりよい国、住みやすい国にすべく意見を言い合えることだ。

それが実現された上での改憲なら、恐れるものは何もない。

さいごに

「3分の2を取った。だから改憲」の前に、やるべきことがある。

国民に判断材料を与えること。歴史を直視する教育を行うこと。考える力を養うこと。守るべき核心を制度的に守る仕組みを議論すること。

これらを飛ばして手続きだけ進めるのは、急いでいるのではない。省略しているのだ。そして省略されているものこそが民主主義の本質だ。

改憲そのものが悪なのではない。改憲の前提が整っていないことが問題なのだ。

その前提を整えるのは、高市首相の仕事であり、メディアの仕事であり、教育者の仕事であり、そして何より、私たち一人ひとりの仕事だ。

まずは、自分で調べ、自分で考え、自分の言葉で語ること。それが今、この国で最も足りていないものだと思う。

政治・経済
執筆者
メディウス

日常生活の中で感じた世情や政治経済について綴っています。政治に関してはかつては過激な右寄りでしたが、今はさまざまな経験を経てバランスの取れた視点を目指しています。また、私自身が低年収層の当事者として、庶民目線での発信を心がけています。2級FP技能士、宅地建物取引士。

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