2014年に放送されたNHKドキュメンタリー
2014年8月、私はNHKの「ドキュメンタリーWAVE」で『水質汚染と闘う~中国・ガン多発村で何がおきているのか』という番組を見た。
きっかけは、その少し前に起きた昆山市の工場爆発事故(死者69人、負傷者約190人)のニュースだった。この事故をきっかけに、昆山市という地域に注目が集まっていた。
番組の舞台は、その昆山市。中国・江蘇省にあり、上海や蘇州といった大都市に近く、ハイテク企業の積極的誘致策により中国国内で経済的に最も成功した県級市と言われていた。精密電子、精密機械、精密化学工業などハイテク産業を中心に、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、日本、台湾など数か国の企業が数百社進出していた。
しかし、その昆山市の同心村という小さな村が、深刻な水汚染に晒されていた。

同心村に流れる婁下河は四方をハイテク産業工場に囲まれていた。リチウム電池を作る工場、プラスチック化学工場、携帯電話基盤工場。これらの工場からの排水により川が汚染され、村人の多くががんに苦しんでいた。

工場から出る排水は、法律では川に流しても問題ないレベルまできれいにしてから流さなければならない。しかし、十分な措置をとらず真っ黒な排水を流し、隠し配管まで作ってさらに汚染された水を垂れ流していた。
環境NPOが川の汚染度を調査会社に依頼した時のデータは衝撃的だった。
- 銅:基準値の35倍
- ニッケル:基準値の5倍

銅は連続して大量に摂取すると慢性中毒を起こす。ニッケルは一部の野菜に濃縮されやすい物質で、人体に入ると抜けにくく、高い発がん性がある。
そして隠し配管付近の水においては驚愕の数値が計測されていた。
- 銅:基準値の216倍
- ニッケル:基準値の13倍

村人たちの多くは貧困に苦しんでおり、浄水された水道水を買うお金を出すことができなかった。この川の水を使って野菜を育て、生活に必要な水として使っていた。
番組では、川沿いで生活する村人たちが次々とがんを発症し、苦しむ姿が映し出されていた。



2014年の私が書いたこと
当時の私は、この番組を見て強い衝撃を受け、記事にこう書いていた。
そして記事の最後にはこう書いていた。
今読み返すと感情的で一方的な部分もある。特に「こんな国で生まれなくて本当によかった」という表現はあまりに単純で配慮に欠けていた。若気の至りとはいえ情けないと思う。
しかし、当時の私が感じた衝撃は本物だった。そして、「安い製品の裏側には誰かが払っているコストがある」という直感は間違っていなかったと思う。
11年後、レアアース規制のニュースを聞いて
2024年末、中国がレアアースの輸出規制を強化したというニュースが流れた時、私はあの番組を思い出した。
レアアース問題と昆山市の水汚染。一見別の問題に見えるが、構造は驚くほど似ている。
構造的な類似性
昆山市の水汚染(2014年)
- ハイテク製品(スマホ、PC、バッテリー)の製造
- 銅、ニッケルなどの有害物質による汚染
- 現地住民への健康被害(がん多発)
- 先進国メーカーの関与
レアアース問題(2025年)
- ハイテク製品(スマホ、EV、風力発電)の製造
- レアアース採掘・精製過程での放射性物質や重金属汚染
- 採掘地域の住民への健康被害
- 先進国メーカーの需要
どちらも、先進国の消費と途上国の環境コストという構造だ。
違いは、昆山市が「製造過程」での汚染であるのに対し、レアアースは「採掘・精製過程」での汚染という点だろう。しかし、私たちが手にするスマートフォンやノートパソコン、電気自動車の裏側に、誰かが払っているコストがあるという本質は同じだ。
なお、同心村のような「がん村」は中国全体で400以上報告されており、報告事例の約50%が江蘇省を含む5省に集中している。これは同心村が特殊なケースではなく、急速な工業化がもたらした構造的問題の一例であることを示している。
この11年で何が変わったのか
あれから11年。中国の環境政策は大きく変わった。
中国の環境政策の転換
2015年:環境保護法の大幅改正
- 環境違反企業への罰則を大幅に強化(罰金の上限撤廃、違反企業幹部への懲役刑導入)
- 汚染企業の操業停止命令の権限を明確化
- 「按日連続処罰」制度の導入(違反が続く限り毎日罰金)
2016年:中央環境保護督察制度の導入
- 中央政府が直接、地方政府の環境対策を監督
- 地方政府の腐敗や不作為を是正
習近平政権の「生態文明建設」
- 「緑水青山就是金山銀山」(緑の山河こそが金の山河)というスローガン
- 経済成長よりも環境保護を重視する姿勢
2014年当時、私は「工場側から賄賂でも受け取っているのか完全に工場寄りで全く対応しようとしていなかった」と書いていた。地方役人の腐敗と不作為に憤りを感じていた。
しかし、その後中国政府は中央主導で環境政策を大きく転換した。もちろん、問題が完全に解決したわけではないが、少なくとも政策レベルでは大きな変化があった。
昆山市のその後
昆山市も環境対策を強化した。多くの汚染工場が閉鎖または移転を命じられ、環境基準を満たさない企業は操業停止となった。2014年の工場爆発事故も、安全管理と環境管理の見直しを加速させる契機となった。
ただし、具体的に同心村の婁下河がどの程度改善されたのか、村人たちの健康被害がどうなったのかについては、詳細な情報を見つけることができなかった。改善されたことを願うが、一度破壊された環境と失われた健康は簡単には戻らない。
国際的なサプライチェーン管理の進化
企業側も変化した。
- ESG投資の拡大:環境・社会・ガバナンスを重視する投資が主流に
- サプライチェーン監査の厳格化:多くの多国籍企業がサプライヤーの環境対策を監査
- トレーサビリティの強化:製品がどこでどのように作られたかの透明性向上
2014年、番組では携帯電話基盤工場と発注メーカーのアメリカ企業、環境問題のNPOとの話し合いが映し出されていた。アメリカ企業の対応は、当時の私には「ほぼ知らんぷり」のように見えた。
しかし11年後、多くの企業はサプライチェーンの環境・人権リスクに真剣に取り組むようになった。もちろん、それで十分かと言えば疑問は残るが、少なくとも「知らんぷり」ではいられなくなった。
変わらないもの
しかし、11年経っても変わらないものもある。
構造的な問題は残っている
中国の環境規制が厳しくなると、今度は汚染産業は規制の緩い別の国に移動する。
バングラデシュ、ベトナム、インドネシア。ファストファッションの縫製工場、レアアースの採掘、リチウムの精製。形を変えて、同じ構造が繰り返される。
「見えないコスト」を誰が負担するのか
私たちが手にする安いスマートフォン、安いファストファッション、安い電気自動車。その「安さ」の裏には誰かが払っているコストがある。
- 汚染された川
- がんに苦しむ村人
- 低賃金で働く労働者
- 破壊された自然環境
これらのコストは製品価格には含まれていない。経済学で言う「外部不経済」だ。
レアアース規制が示すもの
2024年のレアアース規制は、環境問題が地政学的な武器にもなることを示した。
中国はレアアースの採掘・精製過程で深刻な環境破壊を経験した。内モンゴル自治区のバオトウ市には、レアアース精製の廃棄物を溜めた巨大な「毒の湖」が存在する。放射性物質を含む廃棄物が、周辺の土地と水を汚染している。
バオトウ周辺のがん発生率は国内平均の70倍にも達し、市内には骨疾患専門の20階建て病院が存在する。2003年には子供の知的発達障害が報告され、2017年の研究では子供たちの尿中にレアアース金属が検出された。
中国は自国の環境を犠牲にして世界のレアアースの大部分を供給してきた。そして今、その供給を武器として使っている。
これは単純な善悪の問題ではない。環境コストを負担してきた国が、それを交渉材料にするのは、ある意味当然とも言える。
2025年版:私が思うこと
11年前の私は、「こんな国で生まれなくて本当によかった」と書いていた。今読み返すと、あまりに単純で一方的な見方だったと思う。
当時の私が見ていたのは、「中国」という国の問題だった。しかし本当の問題は、グローバルな経済システムの構造そのものだった。
2014年の昆山市の水汚染も、2025年のレアアース問題も、根っこは同じだ。
先進国が快適で便利な生活を送るために、途上国が環境コストを負担する。これはフェアではない。しかし、この構造はあまりにも巨大で簡単には変えられない。
中国の環境規制が厳しくなったのは良いことだ。しかし、それで問題が解決したわけではない。汚染産業は別の場所に移動しただけかもしれない。
かつての未熟だった私は「中国が悪い」「企業が悪い」と思うことで自分を免責していた。今の私は、この構造の一部に自分も組み込まれていることを理解している。
ただ、理解したからといって、何かが変わるわけではない。それでも、知らないままでいるよりはマシだと信じたい。

