最近、ブレイキングダウンを真似た「いじめ動画」をよく見かける。
反撃できない相手を囲んで殴り、それをスマホで撮影してゲラゲラ笑う。
これを見て、私は一つの問いを投げかけたい。
あれを客観的に見て、「かっこいい」と思える人間がいるだろうか。
本物との比較
井上尚弥選手のトレーニング動画を見たことがあるだろうか。
早朝から走り込み、何千回とパンチを打ち、吐き気がするほど自分を追い込む。そして自分を倒しに来る本気の相手とリングで向き合う。
負ければ全てを失う。その恐怖を飲み込んで、血の滲むような努力を積み重ねてリングに上がる。
一方、いじめ動画に映っているのは何か。
反撃してこない相手。多勢に無勢。囲んで殴って、撮影して笑う。
この二つを並べたとき、どちらが「強い」のか。言葉で説明するまでもない。
プロ格闘技にも興行の論理や様々な問題はある。井上選手を無条件に理想化するつもりはない。
しかし少なくとも、彼が対峙しているのは「自分を倒しに来る本気の相手」だ。その一点だけで、比較として十分に機能する。
私自身の体験
実は私も、子供の頃に似たような経験がある。
当時流行っていた「ガチンコファイトクラブ」を真似て、友達同士で「ごっこ」をやったことがある。顔へのパンチはなし、立ち技のみというルールで。
正直、人を殴るのは嫌だったし、殴られるのも当然嫌だった。ただ、友達がどうしてもやりたいと言うので、「ケガしても知らんぞ」と注意はしつつ、渋々付き合ってやっていた。
それでも、あの頃の私たちには暗黙の線引きがあった。友達同士で、対等な条件でやる。一方的に弱い相手、仲の良くない相手に対しては絶対にやらない。今の模倣いじめと決定的に違うのはそこだ。
私自身、小学生の時に酷いいじめにあっていた。集団で無視され、囲まれ、毎日のように殴られた。木刀で殴られて血が出ても、誰も助けてくれなかった。
だからこそ、「いじめは絶対にしない」と決めていた。弱い者を囲んで殴ることが、どれほど醜く、卑怯で、かっこ悪いことか。身をもって知っていたからだ。
禁止ではなく「配慮」
では、ブレイキングダウンのようなコンテンツを禁止すべきか。
私はそうは思わない。
全面禁止というのは、一見正しいように見えて、実は思考停止だ。「悪いから禁止」で終わらせてしまうと、なぜ悪いのか、何が問題なのかを考える機会が失われる。
必要なのは「禁止」ではなく「配慮」なのだ。
タバコを考えてみてほしい。タバコは禁止されていない。しかし「健康に害があります」と明記されている。買うかどうか、吸うかどうかは個人の判断に委ねられているが、リスクは知らされている。
ブレイキングダウンも同じ扱いができるはずだ。「これはエンターテインメントです」「本物の格闘技とは違います」「真似しないでください」。最低限、この注釈を入れるのは発信者の責任だろう。
大人が娯楽として見る分には自由だ。しかし、影響を受けやすい子供が無防備に真似をしないよう、文脈を与える必要がある。
「ダサい」の本当の意味
学校教育は「暴力はいけません」「いじめはダメです」と言葉で教える。しかし、それだけでは響かない。
私が子供の頃、「はだしのゲン」を見せられた。衝撃的で、怖かった。しかしあの生々しさがあったからこそ、「戦争は絶対にダメだ」という感覚が言葉ではなく身体に刻まれた。
いじめ動画と井上選手の鍛錬を並べて見せることも、同じ効果があるはずだ。並べて見せれば、どちらが「強い」のか、説明するまでもなく分かる。
ただ、ここで注意が必要だ。
「かっこいい」「ダサい」という物差しは、ともすれば「周囲からどう見られるか」という外部基準に堕してしまう。集団の価値観が変われば、定義も変わる。それでは結局、空気に流されるのと変わらない。
私が言いたい「かっこいい」とは、そういう意味ではない。
鏡を見て、自分が自分を誇れるか。その問いに「イエス」と答えられるかどうか。それが本当の意味での「かっこいい」だ。
私の好きなカントの言葉を借りれば、「自分の行動原理が普遍的な法則になっても良いか」という問いでもある。いじめ動画を撮って笑うという原理を、全人類が採用したら世界は地獄になる。その原理は、論理的に自己矛盾している。
内側に物差しを持つ
結局、大切なのは自分の内側に判断基準を持つことだ。
外から与えられた「ダメと言われているからダメ」ではなく、自分で考え、自分で決めた基準。
自分の物差しがあれば、周りが何を言おうと、何が流行ろうと、流されない。ブレイキングダウンが盛り上がっていても「あれは自己矛盾している」と判断できる。友達がいじめに加担していても「俺はやらない」と言える。
その物差しを育てるのが本来の教育のはずだが、今はルールを守らせることばかりで、なぜそのルールが存在するのかを考えさせる機会が少ない。だから、ルールがない場所、監視がない場所で、簡単に崩れてしまう。
井上尚弥が変えたもの
かつてボクシングには「不良の更生」「アウトローの世界」というイメージがあった。
井上選手はそれを根本から変えた。清潔で、知的で、礼儀正しい。そして圧倒的に強い。
彼の姿を見れば分かる。「遊び半分で少し喧嘩に自信があるくらいの人間」では到底届かない世界がある。毎日吐くほど練習し、何万時間もの鍛錬を積み重ねた人間に、片手間で勝てるわけがない。
高校時代を思い出してほしい。野球やサッカー、それこそ柔道などで全国区の選手がいたら、不良たちは絡まない。絡めない。
毎日血の滲むような練習を積んできた人間と、遊び半分の人間では、土台が違うと本能的に分かるからだ。
ガラの悪さは強さの象徴ではなく、単なる「弱さの隠れ蓑」だ。本物の強さとは、自分を律する規律であり、限界まで追い込む努力であり、同等以上の相手に挑む勇気だ。
最後に
いじめの背景には、加害者側の複雑な心理がある。この記事で全てを解決するつもりはない。ただ、少なくとも一つの勘違いだけは正しておきたい。
いじめ動画を見て「強そう」と錯覚するのは、強さの本質を知らない人間だけだ。本物の強さを知っている人は、弱者をいたぶる行為を「最も軽蔑すべきかっこ悪いこと」として切り捨てる。
私は小学生の時にいじめられた。集団の醜さを知った。だからこそ、「いじめは絶対にしない」と決めた。それは外から与えられたルールではなく、自分で掴んだ基準だ。
子供たちに必要なのは、「ダメだからダメ」という説教ではない。本物と偽物を並べて見せ、自分で判断させること。そして、自分の内側に物差しを持たせること。
井上選手の鍛錬と、いじめ動画。
並べて見せれば、言葉はいらない。
